[1]庶民のための漆器作り
会津漆器の起源は、天正18年(1590年)まで遡ります。会津の領主として蒲生氏郷(がもううじさと)が赴任する際に、前領地の近江(現在の滋賀県)から木地挽き職人と塗り職人を伴わせ、漆器作りの基盤を作ったと伝えられています。その背景には、もともと会津地域に漆の木が多かったこともあります。漆の実からは“ろう”も採れたため、江戸時代には漆器とともに漆ろうそくが地場産業として発展しました。その後、戊辰戦争によって漆器産業は壊滅的な打撃を受けますが、明治から大正にかけて、職人たちの尽力によって復興し、現在もその伝統を受け継いでいます。
会津漆器の一番の特徴は、江戸時代の発展期に細かく分業化することによって、効率的な大量生産を可能にしたところにあります。その工程は、重箱や硯箱などの板物とお椀などの丸物によって大きく二つに分かれ、それぞれ木地づくり、塗りの専門の職人がいます。さらに、例えば板物塗りの工程であれば、「ふっこみ」という錆づけをして研磨する作業を行う下地と、塗りの専門がいて、そのなかにも細かく分かれた専門がありました。戦後、重箱の需要がピークに達した昭和30〜40年代には、4〜5人が一組となり、1日に重箱100組分以上は塗り上げるのが一般的なペースだったといいます。
大森茂光さんは板物専門の塗り師ですが、安い輸入食器などに押されて需要が落ち込む現在は、お椀など丸物の塗りも手掛けています。
「今はひとつひとつ時間をかけて塗りますが、昔は“眺めながら塗るのは遊びだ”なんて言われたものです。木地を手に取ったら、すぐにパッパッと塗り始めました」と、大森さんは懐かしそうに語ってくれました。刷毛を動かす回数をギリギリのところまで抑えながら、それでも美しく仕上げることが求められたといいます。このように効率性を高めることで、それまでは身分の高い人しか使うことができなかった漆器が、江戸時代には庶民でも使える日用の器となったのです。
[2]漆をコントロールする難しさ
大森さんが仕事をする作業部屋は、明治時代に建てられた築130年以上の蔵の中にあります。塗りの仕事において、最大の敵は“ほこり”です。密閉された蔵の中であれば、空気があまり動かないため、ほこりの立つ心配が軽減されます。
「塗りの作業をする際も、空気が極力動かないように、姿勢を変えずに動作の無駄を省いて、体を大きく動かさないように心掛けます」と、細心の注意を払いながら塗りの作業は行われます。
塗りは下塗り、中塗り、上塗りと3回ほど塗り重ねるのが一般的です。仕上げの上塗りには大きく二つの技法があり、刷毛で塗ったまま仕上げる「花塗り」と、塗った後に表面を研磨する「ろいろ仕上げ」があります。会津漆器の仕上げは花塗りが一般的です。
「花塗りは漆の加減が難しい。漆が薄いと刷毛目が残ってしまいますし、逆に厚すぎると皺ができてしまい、いずれも美しく仕上がりません」と大森さんは言います。漆そのものの性質、調合の具合、気温や湿度といった天候などさまざまな要因によって、仕上がりは左右されます。そういった要因の兼ね合いをみながら漆をコントロールし、均一に仕上げるのが何よりも難しい技術であり、「漆の性質を覚えるには仕事の数をこなし、さまざまな漆に出合うことが大切」とも言います。漆をコントロールできるようになるには10年以上の経験が必要なのだそうです。
[3]長く使い続けることで磨かれる魅力
最近、大森さんは地元の子どもに熱い汁ものの入ったお椀を持たせたところ、お椀の縁をつかみこわごわと持ち上げた様子が印象的だったといいます。
「木地に漆を塗り重ねた本物の漆器であれば、側面を包み込むように持っても熱くありません。子どもたちが普段、軽いプラスチックの器に慣れてしまっている証拠ですね」と、大森さんは苦笑いをします。会津漆器のお椀を持つと、手に吸いつくような滑らかな感触でフィットします。もちろん熱くありません。
大森さんの工房には、何年も使い続けた漆器の塗り直しの依頼があるそうです。職人が手仕事で作った漆器であれば、何度でも塗り直して長く使い続けることができると大森さんは教えてくれました。
会津漆器協同組合では専門の訓練校を作り、広く伝統の技術を伝承する努力がなされています。「仕事が減り続けている時代だからこそ、確かな技術力がなければ自然淘汰されてしまいます。職人同士で自分が身につけた情報を交換しながら、切磋琢磨していかなくてはいけません。そうして、これからも長く使い続けられる漆器を今後も作っていきたい」と、大森さんは語ってくれました。
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