[1]美濃和紙の歴史
現存する日本の最古の紙は、正倉院に残る702年(大宝2年)の美濃、筑前(現在の福岡県の中央から西北部)、豊前国(現在の北九州市小倉北区、小倉南区、門司区や福岡県田川市、豊前市、大分県中津市あたり)の戸籍用紙と考えられています。その時代から、美濃は紙の産地として知られていました。けれども、現代は機械化の波に逆らえず、紙漉き職人は1945年ごろから激減し、現在は板取川流域の蕨生(わらび)地区中心に、数軒の工房で伝統の紙漉きの手法が受け継がれています。
その受け継ぎ手の一人が、澤村正(さわむら・ただし)さんです。現在80歳の澤村さんは、15歳のときから家業の紙漉きの道に入り、以来65年にわたって最高級の「本美濃紙」を作り続けてきました。澤村さんは仲間とともに、「本美濃紙保存会」を立ち上げ、昔ながらの「流し漉き(ながしずき)」と呼ばれる手法を守り、国の重要無形文化財にも指定されています。
[2]本美濃紙ができるまで
澤村さんが受け継ぐ本美濃紙の手法とは、昔ながらの手作業による紙作りです。その工程は、次に挙げる10の過程があります。
- 剥離(はくり):原料となる楮(こうぞ)の木の皮を剥きとり、白い皮のみにします。
- 晒し(さらし):白い皮(白皮:しらかわ)を水に浸し、さらに天日で干して、白みが増すように晒します。昔は川の水を使いましたが、現在は各家で地下水を汲み上げた水槽を設け、そこで行われています。
- 煮熟(しゃじゅく):白皮を柔らかくなるまで煮て、楮の繊維を取り出します。
- ちりとり:白皮のゴミを1本ずつ水の中で取り除きます。
- 叩解(こうかい):白皮を石の上に置いて、2本の木槌で叩き、繊維をほぐします。現在は、専用の分解機が使われています。
- 紙漉き:木で作られた漉舟(すきぶね)と呼ばれる水槽に、水と白皮、さらに白皮の繊維を接着する役割の「ねべし」を入れてよく混ぜます。ねべしとはトロロアオイの根から抽出したものです。そこに簾桁(すけた)を揺らして、漉舟の液を漉きます。
- 圧搾:漉き上げた紙を重ねて、圧力をかけて水分を搾り出します。
- 乾燥:干し板に漉いた紙を張りつけて、天日干しにします。現在では乾燥機で乾かすこともできます。本美濃紙は昔ながらの天日干しで乾燥させることで、時間がたっても変色せず、むしろ年数を経るごとに白さが冴えるという特長が生まれます。
- 選別:出来上がった紙を1枚ずつ光に透かして検品します。
- 裁断:特製の包丁で、用途別に紙を裁断します。
どの工程も長年の職人の勘が必要になりますが、特にどのぐらいねべしを入れるか、その加減が難しいと澤村さんは言います。「日差しが強かったり、気温が高かったり、その日の気候によって同じねべしの分量でも、とろ(ねばり)は変わってくる。いつ漉いても紙が同じ厚さになるように、とろを調整するのが難しいところのひとつです」。
本美濃紙は、蕨生のきれいな地下水と茨城県産の最高級の楮を100パーセント使って作られています。澤村さんは、美濃本紙の特長を「通気性があって、保温性が高いところ」と言います。「とてもキメは細かいにも関わらず通風性があります。また、日光の温かみを紙が保ってくれます。つまり、本美濃紙の障子紙は日本の気候、環境に合っていて、とても体にいいんです。薄く漉いた書画紙のほうは、すっと力を入れずに書くだけで、とてもいい字になりますよ」。(澤村さん)
[3]本美濃紙を守るために
澤村さんの紙は、京都迎賓館のあんどんなど、最高級の障子紙、書画用紙、文化財保存修理用紙として使用されています。1945年ごろには1,200〜1,300人もいた漉き手も、現在は20数人。さらに、重要文化財の指定を受けた本美濃紙の担い手となると、わずか2軒で、漉き手は4人だけに限られます。
「いい紙を漉くには、きれいな空気ときれいな水。それに、きれいな心の3つがあればいい」と澤村さん。作業部屋には、さまざまな賞状が掲げられた端に「知識を得
腕にして 体得にして 心ですく」と、自らの書が張ってありました。
紙漉きは、朝6時から夕方6時までの12時間労働です。「毎日必死で漉いても、機械漉きなら手漉きで5年分の枚数が1日で漉けてしまう」と澤村さんは言います。けれども、手漉きの紙がもつきめの細かい美しい風合いは、決して機械漉きでは真似できないものです。楽な仕事ではありませんが、澤村さんは、「どこまでも青く冴え渡る空と、深い緑が続く山を眺めては、ぐっとおなかに力を入れて、ど根性で頑張ってきました。紙漉きが私の生き様」と朗らかに笑います。
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